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菅原文太さんは「知性の人」 俳優がゼロから映画制作にかかわった最初の作品 仁義なき戦い [菅原文太さん]

菅原文太さんは「知性の人」 俳優がゼロから映画制作にかかわった最初の作品 仁義なき戦い



 2014年12月2日、NHK総合テレビジョン『あさイチ』では、

追悼・菅原文太さんを特集しました。

映画「仁義なき戦い代理戦争」(東映)を紹介しました。

以下に週刊ポスト2014年12月19日号からの記事を紹介します。



「知性の人」であり続けた



 『トラック野郎』や『仁義なき戦い』での武闘派イメージが強いゆえに誤解されがちだが、

菅原文太さん(享年81)は「知性の人」であり続けた。

俳優業も晩年の社会活動も、思索に思索を重ねた結果だった。



俳優がゼロから映画制作にかかわった最初の作品



当時の菅原を知る、元東映宣伝部部長の福永邦昭氏がいう。

 「『仁義』は、文さんが企画段階から参加した作品でした。

おそらく俳優がゼロから映画制作にかかわった最初の作品ではないでしょうか。

文さんは宣伝広告の写真を撮影する際、カメラマンと2人で京都のホテルに

1週間缶詰めになって“リアリティとは何か”をとことん話し合ったそうです。

途中からは深作監督も加わって“虚構”ではなく“実際のやくざ”を作ることに

情熱を持っていた」

週刊ポスト2014年12月19日号



ホームドラマ界の大スターだった宇津井健さんと接点や共通点が少なくなかった



県内屈指の名門校である宮城県仙台第一高等学校に入学。

早稲田大学第二法学部法学科に進学。

劇団四季に1期生として入団。

宇津井さんと、男くさい作品にばかり出演していた文太さん、

二人の映画人生の振り出しは、ともに新東宝。

戦後の一時期、同じ釜の飯を食べた間柄。

二人は早稲田大学中退という点でも一緒。

新東宝に入る前、文太さんは劇団四季、

宇津井さんは俳優座に所属しており、

演劇界出身であるところも同じ。

現代ビジネス

菅原文太さんは「知性の人」 俳優がゼロから映画制作にかかわった最初の作品 仁義なき戦い

でした。


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菅原文太さん一躍スターに 深作監督はヒットメーカーに 仁義なき戦い 広島死闘篇 代理戦争 頂上作戦 完結篇 [菅原文太さん]

主演の菅原文太さんが一躍スターとなった仁義なき戦い。

深作監督もヒットメーカーになった仁義なき戦い。

山上光治(北大路欣也)と村上正明(千葉真一)をモデルを軸に第二部「仁義なき戦い 広島死闘篇」、

日活の大スター・小林旭が参加した第三部「仁義なき戦い 代理戦争」、

武田( 小林旭)と岩井(梅宮辰夫)の第四部「仁義なき戦い 頂上作戦」

宍戸錠が演じた第五部「仁義なき戦い 完結篇」

菅原文太さん一躍スターに 深作監督はヒットメーカーに 仁義なき戦い 広島死闘篇 代理戦争 頂上作戦 完結篇



 2014年12月2日、NHK総合テレビジョン『あさイチ』では、

追悼・菅原文太さんを特集しました。

映画「仁義なき戦い代理戦争」(東映)を紹介しました。



仁義なき戦い



1973年(昭和48年)1月13日に東映配給網により

正月映画第2弾として公開され『仁義なき戦い』で

深作監督はヒットメーカーとなり、主演の菅原文太も一躍スターとなった。

第1作の成功でシリーズ化されました。

坂井(松方弘樹)が組長山守(金子信雄)に詰め寄る台詞。

「おやっさん、・・・、あんたは初めからわしらが担いどる御輿じゃないの。

組がここまでなるのに誰が血流しとるの。

御輿が勝手に歩けるゆうんなら、歩いてみいや。

・・・喧嘩はなんぼ銭があっても勝てんので。」

坂井 「のう。昌三。我らはどこで道を間違えたんかのお。

夜酒飲んでつくづく極道が嫌になって足を洗おうと思うても、

朝になって代紋に囲まれるとコロッと忘れてしまうんよ。」

広能(菅原文太)「最後に言うといちゃるがのお、狙われる者より、

狙う者の方が強いんじゃ。そげなこと考えると隙ができるど。」

山守 「広能。おどれは腹くくってやっちょるんか。」

広能 「山守さん。弾はまだ残っとるがよ。」



第二部「仁義なき戦い 広島死闘篇」(1973年)



1950年(昭和25年) - 1953年(昭和28年)の第一次広島抗争を舞台に、

実在した二人のヤクザである山上光治(北大路欣也)と

村上正明(千葉真一)をモデルを軸にして描いた

第二部『仁義なき戦い 広島死闘篇』。




第三部「仁義なき戦い 代理戦争」(1973年)



1973年(昭和48年)9月25日に東映で公開された『仁義なき戦い 代理戦争』から

日活の大スター・小林旭が参加。

「ワシゃそがいな勲章も無いしの」「ワシには家賃が高過ぎますけぇ」というセリフ

の知性派ヤクザであった。

1960年(昭和35年)~1963年(昭和38年)を描いている。




第四部「仁義なき戦い 頂上作戦」(1974年)



1974年(昭和49年)1月15日に東映で公開された。

市民社会・マスコミによる暴力団への糾弾は激化し、

警察も各暴力団を徹底監視する方向性を打ち出した。

昭和38年。神戸神和会系の山守組・早川組vs.

神戸明石組系の打本会・広能組の対立は、

誤射等による一般市民の犠牲者を出しながら激化。

警察の頂上作戦でともに逮捕された広能( 菅原文太)と

武田( 小林旭)。

明石組・岩井(梅宮辰夫)

「打本はん。あんたはそれでも極道か。それとも何か。

その辺のタクシー屋のおっちゃんか」

打本(加藤武)

「わしゃもう事業一本に絞りたいんじゃ」

岩井 「さよか。わしらタクシー屋のおっちゃんには用はないさかい、

これから一人で歩いたらよろしいがな。でもええでっか。

前向いても崖、後向いても崖やで。

あんじょう性根を入れて歩くこっちゃな」

野崎(小倉一郎)

「こんながやってくれると助かるんじゃがのお。

・・・こんなもここらで男にならんと、もう舞台は回ってこんど。」

広能 「もうわしらの時代はしまいで。

こう寒さが身に染みるようになってはのお」




第五部「仁義なき戦い 完結篇」(1974年)



第三次広島抗争を描いている。

脚本はこれまでの笠原和夫から高田宏治へ。

宍戸錠が演じた大友勝利。

菅原文太さん一躍スターに 深作監督はヒットメーカーに 仁義なき戦い 広島死闘篇 代理戦争 頂上作戦 完結篇

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菅原文太さん『落花は枝に還らず』『 朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり』 太宰府天満宮祖霊殿で密葬 [菅原文太さん]

菅原文太さん『落花は枝に還らず』『 朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり』 太宰府天満宮祖霊殿で密葬



 2014年12月2日、NHK総合テレビジョン『あさイチ』では、

追悼・菅原文太さんを特集しました。

妻・文子さんのコメントを紹介しました。



菅原文子さんのコメント



 「7年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち

『朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり』の心境で日々を過ごしてきたと

察しております。

 『落花は枝に還らず』と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。

1つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。

もう1粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、

荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。

すでに祖霊の1人となった今も、生者とともにあって、

これらを願い続けているだろうと思います。

 恩義ある方々に、何も別れも告げずに旅立ちましたことを、

ここにお詫び申し上げます」。




朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりとは



朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりとは、

朝に人がどう生きるべきかを悟ることができれば、

夕方に死んだとしても後悔はないということ。

『論語・里仁』にある孔子のことばで、

人としての道を追求することの大切さをあらわす。

http://kotowaza-allguide.com/a/ashitanimichiwokikaba.html




落花は枝に還らずとは



「ひとたび散った花は再び枝に戻らない」という意味で、

「死んだ人は再び生き返らない」ことを例えています。

薩摩藩士・高崎正風らと計画を練り、会津藩と薩摩藩が結んだ

宮中クーデターである八月十八日の政変を起こし、

藩兵を率い、実質的指導者として活躍した会津藩の

秋月 悌次郎。

秋月悌次郎を題材とした作品

中村彰彦『落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎 (上下)』

(中央公論新社、平成16年(2004年)/中公文庫、平成20年(2008年)、

新田次郎文学賞受賞。

菅原文太さん『落花は枝に還らず』『 朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり』 太宰府天満宮祖霊殿で密葬

でした。


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